ヒマやなぁ、でも、なんもやる気おきねぇなぁ、ってぼーっと、アマゾンプライムビデオ検索してたら、なんと、寺山修司原作の映画「田園に死す」が無料配信されとるではないか。
ってことで、寺山修司大好き人間としては、といいつつ、「田園に死す」の原作は読んだことない(おい、どこが大好き人間なんだ)、積極的に映画を観るとこまで追求しなかった、さらっと観るきっかけがなかった寺山修司映画を、こりゃいい機会だって事で、やっと念願の「田園に死す」を観ましたよ。
しかし、いまの時代に観ても前衛的で、メタファー的描写が多く、とくに田舎を持たない人間にとっちゃ、全く意味不明な映画になる可能性があるなこれ。
で、オイラといえば、寺山修司と同じ青森県出身だから、という訳ではないが、なんとなく肌感で感じることはできた映画ではある。
主人公である「私」が、過去の「私」と出会った事で、田舎を抜け出し東京暮らしをしている状況においてもなお、過去を都合よく虚構化しながら過去に囚われて生きている事に気づかされ、現実と虚構のパラドックスに陥り、その呪縛の根源である母親を殺しても「私」が存在するか確かめるために、いまの「私」が、村(母親から)を抜け出したい過去の「私」と一緒に、過去の田舎に帰郷する。
が(ざっくり話の筋を端折るが)、結局、母親殺しは果たせず、しまいには、そのまま母親となし崩し的に一緒に飯を食ってしまう。そして、新宿交差点のど真ん中で淡々と母親と飯を食っているという、絶望的?喜劇的?諦念的?なラストシーンで終焉を迎える。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そしてかなしくうたふもの
帰るところにあるまじや
寺山修司の「ポケットに名言を」のなかで取り上げられていた、室生犀星の詩。
現実世界では、すでに母親の元に帰らないことを決心し、己を更新し、母親殺しを実践していた寺山修司にとって、ひょっとしたら、映画の中で「私」を田舎(母親の元)に帰郷させたことが、寺山修司の最大限の母親への懺悔?愛情表現?だったのではないか。だが、そのことは主人公である「私」の「死」を意味することだった。残念ながら実の母親には、到底理解されることはなかったと思われるが。まぁ、オイラの変則妄想的拡大解釈です。
どこまでも追ってくる血の呪縛。物心つく前の幼少期から刷り込まれてきた因習。
そこからの脱却と自己更新と、己の革命を常に提唱してきた寺山修司。
やはり、田舎もんにとっちゃ、嫌な云い方になるが、カリスマ的なところはある。